遺跡と野蛮 - アンコール・ワット 密林に消えた文明を求めて

 首のないギリシャ彫刻があれほど多いのはなぜかご存じだろうか。

 ギリシャがオスマン帝国に支配されていたときに、偶像崇拝を禁じるムスリムたちが頭を破壊してしまったのだ、そう大英博物館のツアーガイドをしてくれた若い女性ガイドは言っていた。

 イスタンブールの考古学博物館にはヒッタイトの、ローマの、ビザンチンの、そして当のギリシャの、頭のある彫刻が並んでいるというのに。オリエントの野蛮さを信じるツアーガイドが、子どもたちに偏見を引き継いでいく。

 オスマン帝国が崩壊して100年以上が経った今も。

 トルコがNATOの最前線としてヨーロッパを侵略から守る盾となっている今も。

 オスマン帝国がギリシャの支配者となる前から、ある種のギリシャ彫刻には頭がなかったとも言われている。この地をかつて支配したローマ人が、戦利品として持って帰ったのだとも言われている。バチカン博物館には、ギリシャ時代の胸像が所狭しと並んでいる回廊がある。


アンコール遺跡を訪ねたのは、公けの調査団だけではない。

休暇中の仏領インドシナ行政官、ヴェトナムに寄港して外出許可を得た水兵、美術や歴史に通じた本国からの観光客が押し寄せた。

・・・

彼らは土産にクメールの美術品を求めた。彫像もよいけれど重すぎると、持ち運びの楽な頭部だけ、さもなければ小さなブロンズ像が好まれた。フランスに持ち帰られたこれらの美術品の一部はトロカデロのインドシナ博物館やギメ美術館に収蔵されたが、多くは個人のコレクションとなった。


 ブリュノ・ダジャンスは『アンコール・ワット 密林に消えた文明を求めて』で、19世紀に西洋人がアンコール・ワットをはじめとするアンコール遺跡を「発見」してから、いかにしてアンコール遺跡と向かい合ったか、その歴史を資料とともに緻密に説明している。

 アンコール遺跡は主要なものだけでも26か所の遺跡から成り立っている。9世紀に建立された都市の遺構、12世紀に建立されたアンコール遺跡で最も有名な遺跡であるアンコール・ワット、12世紀末に建立されたタ・プロームやバンテアイ・クデイ寺院・・・繁栄を極めたアンコールは、15世紀にカンボジア王が都を移したことで一旦その歴史を終えた。

 アンコールが再度多くの人を受け入れるようになったのは、19世紀だった。西洋から、博物学者、宣教師、軍人、様々な肩書を持った自称「探検家」が「調査」をするためにアンコールを訪れた。そして彼らは「調査」の一環としてアンコールの美しい彫刻を本国へと持ち帰った。

 神秘的なオリエントの遺跡は西洋人の心を刺激した。まず、伝聞情報をもとにした想像図が多く描かれ、やがて写真が刷られたポストカードが街中で売られ、1922年のマルセイユ、そして1931年のパリで開催された植民地博では、アンコール・ワット本殿上層部の実物大復元が目玉として展示された。


「金のことだか」

「まあ浮彫なら、どんな小さいのでも3万フランぐらいしますね」

「金フランにして」

「それは、欲張りすぎですが」

「そうすると、少なくとも10個は必要だ。君の分に10個と、合わせて20個」「そう、石20個」

 アンドレ・マルロー『王道』


大英博物館のガイドを信じるとしても、オスマン人は少なくともギリシャ人の遺産を「異教の神」として見ていた。フランス人はカンボジア人の遺産が「金」にも見えた。どちらがより野蛮かを論ずることに、意味はないだろう。

【アンコール・ワット 密林に消えた文明を求めて/ブリュノ・ダジャンス】


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