それでも私たちは理解しなければならない - 文明としてのイスラム

 私たちはなぜ、イスラーム社会を理解できないのだろうか。

 9.11以来、イスラーム社会そしてアラブ社会は常に批判にさらされている。イスラエルの離散問題担当大臣を務めたナタン・シャランスキーが「これは大原則でありますが、『アラブ世界』がより民主化されれば、より日本が安全になる」と言ったとき、あるいはフランスの移民局長官だったジャン=クロード・バローが「完全な異教徒に関して言うと、シャリ―アにしたがう限り、彼らはいかなる法的地位ももつことができず、暗黙裡に絶滅を約束されているのである」と言うとき、そこに込められているのはもはや危機意識を通り越した憎しみである。

 しかし、どれだけ憎しみを持とうとも、私たちはイスラーム社会と共存する方法を探していかなければならない。なぜなら、すでにイスラームに帰依する人々は16億人、キリスト教の次に多い信者を抱える一大宗教となっているからだ。彼らを無視するということは、世界の5分の1を無視することになる。

  私たちはイスラーム社会を理解しなければならない。しかし、イランからアメリカに亡命した元外交官フェレイドゥン・ホヴェイダが「西欧の完全消滅ではないにしても、その恥辱、弱体化、衰退を望んでいるのである」とイスラーム社会の人々について説明するとき、あるいは教皇ベネディクト16世が「ムハンマドが新たにもたらしたのは何だったのだ。それは邪悪と冷酷でしかなかった」という東ローマ皇帝の言葉を引用するとき、私たちは彼らを理解することを拒絶している。

しかしそれでも、私たちはイスラーム社会を理解しなければならない。

 日本中東学会の会長も務めた加藤博一橋大学名誉教授の『文明としてのイスラム―多元的社会叙述の試み』を読めば、その希望を見出すことができる。

 本書で加藤が鮮やかに描き出すのは、躍動感に満ちたイスラーム社会の一つの姿だ。そこには、テロと暴力と「アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)」の尖った叫び声だけではない、都市的、商業的な「商人の社会」ともいうべき「文明」がある。

 この商人/商業を中心とした文化はその他の文化とは異なったものであると加藤は指摘する。

 「前近代のキリスト教社会、日本の徳川時代など、商業という職業とそれを独立した生業としている商人という人間集団とに対し、否定的な態度をとる社会は歴史上多かったが、それは、こうした社会では、商業が共同体と共同体の間に成立する職業として、それゆえに共同体内倫理とは異質の、共同体を攪乱する要因として位置づけられていたからである。・・・かくて、そこから生み出される文明が、商業と商人を高く評価するイスラム世界の文明と根本的に異質であることは、容易に想像がつく」

 日本人は農耕民族であるとよく言われる。土地とともに生きてきたのが日本人だ。農業の発展とともに文明を発展させてきたキリスト教社会もまた、土地とともに生きてきた人々だと言えるだろう。ならば「市」が都市の中心となり、日常が「市場圏と交易圏」を単位として組み立てられているイスラーム社会を理解することは不可能なのだろうか。成り立ちの違う者を理解しようとせず、排除しようとするのは、社会的な動物であるところの人間のいわば本能のようなものなのかもしれない。

 しかしそれでもなお、私たちはイスラーム社会を理解しなければならない。ある記者にバスの中で声を掛けられた青年から「欧米の人たちがイスラム教徒を憎んでいるというのは本当かい?僕らはただ、平和に暮らしたいだけなのに」という言葉が零れてくる限りにおいて。

【文明としてのイスラム 多元的社会叙述の試み/加藤博】


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