文化に対する謙虚さ - Toward an Islamic Reformation

 私たちは他文化の法律を認めることができるだろうか。

 それはできるできないの問題であることは言うまでもない。世界が一つの文化として統一されていない以上、私たちは他文化の法律が、どれだけ納得がいかないものであっても認めなければならない。しかし、そうであってもその法律が自分たちに課される危険がある以上、他文化の法律は私たちに恐怖心を持たせる。

 イスラーム社会の人々は、聖なる法=シャリーアを源として作られた法律によって社会を規定している。イスラーム社会を外から見る私たちには、その「聖なる法」はいかにも恐ろしげに見える。

 「聖なる法によって規定されたイスラームにおける人権は、完全な法的資格を持つ人物にのみ与えられている。完全な法的資格を持つ人物とは適齢で自由かつムスリムとしての信仰を持つ生者である。つまり、イスラーム国家に住む非ムスリムや奴隷は法では部分的には守られておらず、法的資格が全く欠如している。

 『War and Peace in the Law of Islam』マジド・カドゥリ」

 イスラームの聖なる法の前では私たちは完全には守られていないのだろうか。このようなイスラームについての一般的な見解に異を唱えているのが、スーダン人法学者アブドゥライ・アナイムの著書『イスラーム改革に向けて』である。

 本書でアナイムは、聖なる法であるシャリーアは「可変性」があり、決して人権は無視されていないと主張する。

 「今日のように人間社会がグローバルに展開している中で平和的共存をしていくために何が必要なのかを考えると、ムスリムはメディナの時代の排他的なムスリムのみの連帯を唱える過渡的なメッセージよりもメッカの時代におけるクルアーンが示す普遍的連帯という永遠のメッセージを強調するべきである」

 アナイムの考えによれば、ムハンマドの時代につくられた聖なる法は、可変性によって現代に合わせた形へと変えていくことができる。しかし、彼の考えはあまりにも楽観的すぎないだろうか。法とはそんなにも簡単に変えられてしまっても良いのだろうか。あるいはこう問いかけることも必要かもしれない。私たちは自分たちを守るために他文化の法を変える権利があるのだろうか。

 私たちが考えなければならないのは何か。それは、いかに相手の変化を促すかではない。いかに相手を知り、折り合いをつけていくかではないだろうか。相手が人間であれば当然のごとく私たちはそう行動するのではないか。しかし相手が国や文化になるとたちまち、私たちは謙虚さを忘れてしまう。

 私たちはイスラーム社会で事件が起こるとどこかでそれを冷めた目で見ている。そして自分たちの社会と似た態勢を整えた国を称賛する。そこに謙虚さはない、あるのは前近代的で帝国主義的な傲慢さだ。領土を占領するのではなく、文化を占領することで私たちは帝国をつくっている。

【Toward an Islamic Reformation/Abdullahi Ahmed An-Na'im】


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