運ぶ人がいなければ存在しない物語 - 使者と果実

 「花粉団子」というものがある。

 ミツバチが足に抱えてミツとともに巣へ持っていく花粉の塊のことである。

 ミツバチというと花の蜜ばかりを食べていると思うかもしれないが、実は花粉もミツバチの食卓に並ぶ重要な食材だ。ミツが主食ならば、花粉はおかず、だそうだ。

 ミツバチが花粉を足に抱えて飛んでいると、いつの間にか他の花に花粉が落ち受粉する、そんな話を聞いたことがあるだろう。花は、ミツバチをはじめとする昆虫が花粉を運んでくれないと、受粉が出来ないそうだ。なんと危ない仕組みだろうか。花は自らの種の運命を昆虫たちに委ねてしまっているじゃないか。共存関係と言えば聞こえは良いが、実際のところこの仕組みは花もミツバチも薄い氷の上に立っているようだ。

 ミツバチがいなければ花は生きられない、花がなければミツバチは生きられない。

 運ぶものがいなければ生きられない者、運び続けなければ生きられない者。


「運ぶ人がいなければ、いろんなものは存在しないも同じですからね」

 レオンハルトが馬に揺られながら言った。

「運ぶ人間? 作り手のまちがいでは?」

「ええ、もちろん我々作り手は必要です。しかし、ものごとがこの世に存在するにはここからどこかへ届けられなければならない。そうじゃないですか?」


 梶村啓二の『使者と果実』は、運ぶ人の物語だ。

 物語は、現代のブエノスアイレスと第二次世界大戦前夜のハルビン、そして現代のロンドンと過去のベルリンを反復しながら進んでいく。

 アルゼンチンワインのプロデューサー―ディーラーではない―として一人再起を図ろうとする悠一は拠点としていたレストラン「ティントレット」で、弦楽アンサンブルでチェロを弾く日本人の老人、ヤマダタダシと出会う。ある夜、その老人は語りだす。ナチスドイツのチェロを盗んだ、その時のことを・・・

 タダシが語るハルビンの生活は戦争が間近に迫っているとは思えないほど美しい。彼が語る奈津との恋の物語もそれが禁じられた関係であるとは思えないほど輝いている。もしかするとそれは逆なのかもしれない。戦争がすぐそこまで迫っているからこそ平穏な街の風景は美しく、禁じられた関係であるからこそその恋は輝いているのかもしれない。


 あれは一九三九年四月のことだった。わたしはハルビンのヤマトホテルのロビー脇の棕櫚の間と名付けられたティールームでタダシが現れるのを待っていた。広いティールームには、北国の南に対する憧れを示す南国の大きな観葉植物の鉢植えがいたるところに飾られていた。


悠一がタダシから聞く物語はその全体の半分でしかない。なぜならもう半分をタダシも知らないからだ。足りない部分を補う孫江の回想もまた、物語の半分でしかない。全てを知っているのは、2人の物語を見ている私たちだけである。

悠一もタダシも、そして孫江も、使者として運ぶ。運ばなければ起らなかったことがある。運ばなければ持たなかった思いがある。

 ミツバチと花の関係のように、運ぶからこそ物語は進む、物語が進むからこそ運ばなければならなくなる。使者の役割を皆が担っている。

【使者と果実/梶村啓二】


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