不安定な社会、不安定な人間 - ミッション・ソング

 ジョン・ルイス・ギャディスは、冷戦は「長い平和」だったと指摘した。

 アメリカをリーダーとする西側と、ソ連が統率する東側が互いに互いを完全に破壊できるだけの軍事力を持ち、ボタンを押せば第三次世界大戦が起きてしまう、まさに一触即発。しかし第三次世界大戦は起きなかった。だから「長い平和」ということなのだろう。

 キューバ危機で破滅の予感をその身で感じたアメリカとソ連が、軍縮に向かっていったのは当然の流れだったのだろう。キューバ危機から20年やそこらで核弾頭を減らすことまで話が進んだのを見ると、そもそもどちらも相手を罵っていたけれども、戦うつもりはなかったということなのかもしれない。やがてベルリンの壁は崩れ、「長い平和」のトンネルの出口が見えてくる。

 西ドイツのジャーナリスト、ペーター・ベンダーは、ベルリンの壁が崩れたその年、ECが中立国とかつての東側諸国を加盟させ、ソ連とも関係を深めれば、経済的・技術的結びつきが達成されて、すでに西ヨーロッパで戦争が不可能になっているように、全ヨーロッパで戦争が不可能になるだろうと言った。

 ベルリンのジャーナリストがこれほどまでに楽観的な未来予想をしてしまうほど、トンネルの先は希望に満ちているかに見えた。しかし、冷戦が終わってしばらく経ったこの社会は平和だろうか。

第三次世界大戦は当分起きないかもしれないが、いくらソ連が「悪の枢軸」でも守られてきた宣戦布告やら兵器の制限などという戦争のルールが意味をなさない、無秩序な戦争が冷戦後の世界を支配している。アメリカが支援をしたアフガニスタンの兵士がアメリカに飛行機をぶつけるような、倫理も筋立ても意味をなさない、無秩序な戦争が冷戦後の世界を支配している。

ジョン・ル・カレの『ミッション・ソング』は、無秩序な時代の物語である。アイルランド人宣教師とコンゴ人女性の間に生まれたブルーノ・サルヴァドールは、多数のアフリカの言語を自在に使いこなす優秀な通訳で、タブロイド紙の記者を妻に持ち、ロンドンに暮らしている。ある日、妻のキャリアでも最も大切なパーティを中座させられ、向かった先で英国政府情報部に依頼されたのは、彼の故郷でもあるコンゴ民主共和国をめぐる秘密会議の通訳だった。

 もしこれがジェームズ・ボンドの物語であれば、颯爽と現れたボンドによって悪の親玉は殺され、コンゴには平和がもたらされ、おまけにボンドは美しい女性を捕まえるのだろう。20世紀までは、スパイは、情報部のエージェントは、そう描いておけば十分だった。なぜなら、的ははっきりと見えており、ボンドはその的に向けて銃を撃つだけで良かったからだ。

 しかし、21世紀のスパイは、エージェントは、あるいはサルヴァドールのような秘密会議の通訳であっても、殺すべき相手は曖昧で、どうすれば平和をもたらせるかもわからず、美しい女性を探している余裕などない。そして、的がどこにあるのかわからない中で仕事をしている。


「大国がこれまでにコンゴで犯した最大の罪は゛無関心”だ。そうだろう?」

「そうです」心から同意した。

「手早く稼げるときに介入し、さっさと引き上げて次の危機を待つ。だろう?」

「そうです」

「あの国は鬱血してる。無用の政府。あるかどうかもわからない選挙をただ待つだけの国民。選挙があればあったで、まえよりひどくなる可能性が高い。いわば真空地帯だ。そうだろう?」

「そうです」私はまたくり返した。

・・・

私は「そうです」と言ったが、本当に賛成していたのだろうか。

ノーと言わなかったから、賛成したのだろう。

だが具体的に、何に賛成したというのか。


 ベンダーが予測した平和な社会はここにはない。あるのは不安定な社会だけ、そしてそこにいるのは不安定な人間だけだ。

【ミッション・ソング/ジョン・ル・カレ】


本棚綱目。

収集した本たちの博物誌的まとめ。

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