雑種のヨーロッパ人のための人権 - Surrendering to Utopia

 「人権」とは何か。

 そんなことを考えずとも私たちは生きていける。その存在にはっきりと気づくのは、何か決定的な出来事が起こったときだけである。

 ある日、ヒースロー空港で搭乗の列に並んでいると、アフリカ人の一団がやって来た。その集団は40人ほどで年長の子どもたちはより小さな子どもたちを抱え、その子どもたちは泣き叫ぶ赤ん坊を抱えていた。老人は悲しい目をし、子どもたちは恐怖と魅惑の混ざった目で見ている。この旅で家長の役割を務めざるを得なかった少女は厳しい眼差しをしている。その目を見て彼らの不幸を想像する。彼らは皆、人間を傷つける混乱の中で生まれてきたのだ、と。

亡命先のデンマークに到着したとしても、「彼らは雑種のヨーロッパ人であり、彼らが受け入れられることはまずないだろう。」彼らを通して私たちは、人権の守護者を自負するヨーロッパの矛盾と偽善を見せつけられる。

これはジョージ・メイスン大学で紛争研究を行う研究者、マーク・グッデイルの著書『ユートピアに屈する』の冒頭。彼が出会ったザンビアの難民キャンプから逃れてきたコンゴ人についての描写だ。

 本書でグッデイルが描くのが、「節度ある人権」である。「謙虚さと混乱をはらんだ多様性という事実の評価、そして倫理的着想の源となる日常の社会実践への意欲」に基づいた人権。この謙虚さは決して人権侵害を受けている人々を見ても口出しを控えるということではない。社会の多様性、あるいは雑然とした現実を静かに受け入れる。そのような意味での謙虚さである。

人権は、時には自分たちとは異なる文化を攻撃するための手段になりうる。人権侵害をのべつ幕なしに他文化に当てはめようとする普遍主義者の言葉には、批判を許さない強情さが潜んでいる。その一方で、人権さえもその他の文化と同列に並べて人権侵害を「理解」しようとする相対主義者もまた、自らへの批判を許さない。


 「人権、つまりハリネズミの側は、知識や道徳、法といった全てを網羅するシステムの可能性を信じ、そのようなシステムを創造しようとしている。それに対して相対主義、キツネの側は、全てを網羅するシステムというアイデアを受け入れず、システム構築者の求心的傾向から離れることに(好んで)心血を注いでいる。キツネは中心が維持できないことを知っており、ハリネズミはそれとは対照的に中心のない世界を思い描けない。

『ハリネズミと狐』アイザイア・バーリン」


 グッデイルによれば、相対主義の問題は相対主義そのものにあるのではなく、相対主義か普遍主義か、そのどちらかをラディカルに選択させようと強要する議論の枠組みにあるのだという。私たちは、普遍か相対かという二項対立から抜け出し、「普遍から人間へ」、日常へと目を向けなければならない。

 第二次世界大戦後に国際秩序をつくる立場となった人々は、人権を「人権法」として、私たちの社会を見える形で縛ろうと努力してきた。この試みは始まって間もなく停滞したままなのだが。グローバル化が進み、列強と呼ばれた国々の価値観が絶対的なものではないとばれてしまったことで、人権という言葉の意味さえあまりに多く、そして広くなりすぎたことがその原因だろう。普遍主義者の限界は、同時に相手との間でしか自らを規定できない相対主義者の限界でもある。

 人権は、フランス革命以来、私たちの社会の1つの大きなテーマであり続けている。そして私たち一人ひとりがかかわっている問題であるはずなのに、足踏みばかりが続いている。本書でグッデイルが提案する理論を超えた実践へのコミットメントは、私たちに出口を示しているように見える。

 それに私たちは否が応にも出口を見つけなければならないのだ。冒頭のコンゴ人のようなような人々の顔を歪んだままでなくすために。グッデイルはこう語っている。

 「私に限っては、この本を読むときには、あの誇り高く、美しく、そして怯えていたコンゴ人の少女、自分の家から世界を方に背負って逃げてきたあの少女を思い出すだろう。結局のところ、この本は彼女のために書いたのだから。」

【Surrendering to Utopia: An Anthropology of Human Rights/Mark Goodale】

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