目を半分閉じた人々の物語 - SS-GB

 人はなぜ、勝った戦争の勝敗を入れ替えた物語を書くのだろうか。負けた方が書くならば道理はわかる。それは「あのときこうしていたら」という後悔の物語かもしれないし、単純に勝者となることへの憧れから書かれた物語かもしれない。しかしなぜ、勝った戦争を負けたと仮定して物語を書くのだろうか。

 そこにはある意味で、勝者の余裕が表れているのかもしれない。勝者の立場は、負けた物語を書いたとしても変わることはない。それならば、「負けたあなたたちの立場を理解してあげよう」という訳だ。しかしそこに理解するほどの違いは本当にあるのだろうか。

 レン・デイトンが描く1941年のイギリスですでに処刑されているチャーチルやロンドン塔に幽閉されている国王ジョージ6世のような指導者たちにとっては戦争の勝敗は文字通り命にかかわる問題かもしれない。その一方で、多くの一般市民にとっては、変化にそれほどの意味はない。

 レン・デイトンの『SS-GB』の主人公、ダグラス・アーチャー警視の抱える悩みも、本当の意味では戦争の勝敗とは関係がない。ロンドンの中流階級の出身で、警察学校を卒業して警察官となり、一度も軍人として戦場で戦ったことはなく、「ドイツ人たちが殺人犯を捕えるという仕事を任せてくれる範囲内で、これまでとまったく同じように仕事をやろうというだけのこと」であるこの警察官の悩みは、手を出した秘書が寄越した妊娠したかもしれない、仕事をやめてしまいたいという手紙だ。そんな彼が担当した殺人事件をきっかけに祖国の窮状を脱すための陰謀に巻き込まれていく。

 「目を半分閉じるようにしていれば、〈ユダヤ人の店〉という表示がところどころに出ているのにも気づかなかったろうし、その表示のおかげでよくよく大胆な顧客でないかぎりそうした店にはいっさい近寄らなくなっているという事実にも気づかずにすむのだった。そしてその一九四一年九月のある日、ダグラス・アーチャーもまた、彼の同胞たちの大部分と同じく、目を半分閉じて歩いているのだった」

 この小説に出てくる人々は、一見勇敢そうに見えるが、皆どこかで「目を半分閉じて」いる。世界におけるイギリスの地位を高めるために国王を奪取する計画進める面々は、戦争が終わってもいまだに特権階級に居続けている。彼らの計画はどこか哲学的で、地に足がついていない印象を与える。

 ダグラスを陰謀に巻き込む元国防軍防諜部のメーヒュー大佐は言う。「王家の人たちの脱出は、当然どの歴史書にも書き記されるべきものなのだ。われわれが自分たちの国王を脱出させるのに外国人の署名を偽造するしかなかったなんて、後世に語りつがれてもいいというのかね?」彼らもまた、「目を半分閉じて」いる。

目を半分閉じて過ごすことは、私たちにつかの間の安心感を与えてくれる。悲惨な現実を、辛い日常を、侘しい生活を、半分しか見ないで済む。それでも私たちは目を開けて前へ進むことができるだろうか。

 ドイツと日本は、あの戦争を経て目の開け方を忘れ、戦前を否定するようになった。その一方で、勝者となった国々では、歴史は断絶することなく綿々と続いている。目を開けることの重要性は、勝者にしか伝えられないのかもしれない。それが、勝者が敗者となった仮定をする、1つの理由なのかもしれない。

【SS-GB/レン・デイトン】


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