国家に騙される私たち - 戦争プロパガンダ10の法則

 『一九八四年』の社会はすぐそこにある。

 ジョージ・オーウェルの『一九八四年』は監視社会の恐怖を描いている作品として今でも多くのメディアにおいて引用されているが、彼がこの作品で表現している「恐怖」はそれだけではない。『一九八四年』の世界におけるもう一つの恐怖、それは戦争を理由としてすべてが正当化され、国民もまた、戦争を理由として国家にすべてを委ねていることである。

 その意味では、もうすでに『一九八四年』の社会は今もうここにあると言えるかもしれない。

 アンヌ・モレリの『戦争プロパガンダ10の法則』は、いかにして国家が戦争の中で「あらゆる国民に義憤、恐怖、憎悪を吹き込み、愛国心を煽り、多くの志願兵をかき集めるため」嘘を作り上げ、広めてきたかを10の法則にまとめ、説明している。モレリが挙げる10の法則は私たちがどこかで聞いたことがあるようなものばかりだ。

 「われわれは戦争をしたくない」のだが「敵側が一方的に戦争を望んだ」ために「悪魔のような敵の指導者」と「偉大な使命のために戦う」。私たちも「誤って犠牲を出すが、敵はわざと残虐行為に及んで」おり「卑劣な戦略を用いて」いるが、「私たちへの被害は少ない」。「芸術家や知識人も私たちの戦いを支持」しているのも、「大義が神聖なもの」だからだ。したがって、「疑問を投げかける者は裏切者」である。

 「われわれは決して戦争を望んではいない。帝国の誕生以来、平和な年月を重ねることで、われわれは利益をあげてきた。国家の繁栄は平和のなかにこそある」

 1915年、ドイツ首相は帝国でこう宣言した。たった数十年前にフランスと戦争したことは忘れてしまったかのようだ。それでも国民は熱狂し、戦地へと向かった。

 アメリカ同時多発テロが起きた直後、それまで50%程度だったブッシュ大統領の支持率は92%にまで跳ね上がった。この時、アメリカのほとんどの国民が、ブッシュ大統領の大義のもとに一致団結したのである。さらに、イラクとの戦争を開始した時にも彼の支持率はまたもや50%程度から70%と20%も上がった。今では、戦争の口実となった「大量破壊兵器」の有無が問題とされているが、よくよく考えてみればアメリカ国民にとって「大量破壊兵器」があるかないかなんてどうでも良かったのだということがわかる。湾岸戦争の時からイラクのサダム・フセインは「第二のヒトラー」だった。

 フセインの髭に修正を加えて短くし、ヒトラーそっくりにした写真がニューズウィークに載り、ベルギーの週刊誌ヴィフ・エクスプレスには黒い背景の前で暗い表情を浮かべたサダム・フセインが「サダム・フセインの企み。核、破壊、奇襲、テロ、犠牲、征服そして・・・」という言葉とともに表紙となる。フセインはとっくの昔に「醜悪な敵」の仲間入りをしていたのだ。そしてフセインに攻め込まれたクウェートは人権が守られているとは言い難い独裁国家であるにもかかわらず、「圧政に苦しむ小国」として描かれる。イラク戦争だって、「大量破壊兵器」を持つ「醜悪な敵」を打ち破るための戦いであって、決して資源目当てではない。

 戦争の熱狂が冷めてしまえば、問題はそこかしこにあったことが見えてくる。しかし、私たちはまた戦争が起きれば、同じ言葉に騙されてしまうのだ。

 1914年、フランス政府は召集令発令の際、徴兵は平和を維持するための最善策と宣言した。1940年、ルーズヴェルトは「われわれが戦争を望んでいないことは、全国民はおろか、世界中の国々に知れ渡っている」と語った。湾岸戦争でも「国際法を犯し、挑戦状をたたきつけたのは彼のせいだ」とフセインのせいにされた。いつの時代も、私たちは同じ言葉によって「鼓舞」され、戦争へと突き進んでいった。もうそんなことはないと言い切れる人がどれだけいるだろう。


 「どちらの陣営も、人類の平和だけを願っていると言いながら、何年にもわたって奇妙な理由で戦い続けている。なぜ人が殺し合うのか、はっきりとわかっている暴君はまず存在しない。」


 ヴォルテールは18世紀にすでにそう指摘していた。

 私たちは、ヴォルテールの時代から200年が経ち、知恵と判断力をつけ、私たちは「進化」していると考えているかもしれないが、殊国家に騙されるという点については変わっていない。私たちは疑うことを忘れてはならない。200年変わらなかったことを変えるのが今ではいけない理由はない。

 そうでなければ、『一九八四年』の世界はもう、すぐそこにある。

【戦争プロパガンダ10の法則/アンヌ・モレリ】


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